仮面騎士日記

仮面ライダーの研究、あるいはそこから派出する研究・考察についての記録です。

機動戦士ガンダム00と正義

機動戦士ガンダム00と正義

特撮作品との比較から

機動戦士ガンダム00の雑感

機動戦士ガンダム」というシリーズは、知っているが見たことはない。それが長らくの私の立場であったが、ここ数か月、仮面ライダーについての何かしらのまとまった考えを導き出そうとするうち、それから言わば逃避する形で機動戦士ガンダム00(以下、本作)に触れた。

本作はファーストシーズン、セカンドシーズン、完結編となる映画から構成されるが、その脚本は全て黒田洋介が担当している。個人的には改めて脚本家を調べるまで、よもやこの3作共に同じ脚本家だとは思わなかった。それほどに作風を異にしている、と感じた。

恐らくその背景には、扱われているテーマが違うのだろうと思う。ファーストシーズンでは争いを止めない人類に対して、平和を求めるソレスタルビーイングが武力介入を行う。人と人との、視聴者まで血と土埃の匂いが感じられそうな争い。そして争いでそれを解決しようとする矛盾に対する疑問。そう言った大きなテーマがファーストシーズンにはあり、それなりに哲学と言うものが感じられた。

セカンドシーズンは、より「思い」であるとか、そういう無形の抽象的なものが多く描かれるようになっただろうと思う。イノベイダーの存在などからそれは避けられなかったろうと思うが、ファーストシーズンにあって戦争などに対しての「哲学」のようなものが感じられないとも思う。一方でソレスタルビーイングは、ある種の「哲学」を持った存在であると言うよりも、その「哲学」を感じさせるもののその組織の存続を目的化したような感が否めない。

映画になると、イノベイダーから提起された問題の回収。人間論のようなものに触れるようで触れない、ということになる。どちらかというと、ソレスタルビーイング以後の人間が試されている、と言った方が良いだろうと思う。

こうした事情から、今回はファーストシーズンを軸足に「正義」について、他の特撮に見られる正義論のようなものに関心を寄せつつ評してみたい。

他の特撮作品における「正義」

日本における特撮の隆盛は主にウルトラマンから始まったと言って良いだろうと思う。しかし、実際はウルトラマンの正義論とは当初至極単純であった。

基本的には害獣駆除の論理である。つまり、森から猪が降りてきて作物を食べたとか、森の熊が人を襲い殺したとかというのと同じ様に、怪獣が宇宙をやってくる、だから駆除しようという話だ。

その証拠に、ウルトラマンにおいて欠かせないのは、ウルトラマン共闘することになる地球人側の部隊である。彼らはまさに害獣を駆除するための部隊である。当然、視聴者としての子供たちの参加可能性を示唆するものであるが、一方でそうした側面も持つ。

それでいて、宇宙人であるはずのウルトラマンが、宇宙人であるはずの怪獣を駆除するという同族の殺し合いとの形式も見いだせないこともないが、本質的にウルトラマンと怪獣は出身の星が違うわけだから、それは地球人のエゴではないだろうか。

戦隊ヒーローにおいても正義の定義は比較的容易である。シリーズ中何話か、戦うこと自体に疑問を呈する場合もあるだろうが、基本的には敵は人間に有害だから分かりやすい。敵自身が悪を自称することもある。

仮面ライダーがややこしい。というのもそもそも仮面ライダー「正義の味方」を作ろうと思って出来たキャラクターではない。そもそも仮面ライダー1号とは敵の改造人間のなり損ないである。当初がそれであるが、平成ライダーになるとますます悪の定義は難しい。平成1期初期もさることながら、平成2期はそれに悩み苦しんできた過去があるだろう。

分かりやすいのは仮面ライダーOOOで、欲望というものを否定も肯定も出来ない中で、人間を肯定しながら欲望を糧にする悪を否定することに相当悩んだだろうと思う。

その後、仮面ライダードライブ以後は、ライダーに職業を与えることで、正義というものの規定を簡単にした。

仮面ライダードライブの主人公は警察官であるから、市民の平和を脅かすロイミュードを倒す。仮面ライダーエグゼイドの主人公は医者であるから、ゲーム病を根治するためにバグスターを倒す。

この2作は象徴的である。仮面ライダーゴーストについては、生き返るために戦うという大きな目的を据えながら、主人公の優しさのようなもので戦うことが肯定されていく。それでも相当難があったようで、途中戦わずに解決しようとするシーンが見られたりもした。

どちらかというと、本作と似た構造を持つのは、仮面ライダーではないかと思う。

争いに対する武力介入と平和

本作と仮面ライダーが似た構造を持つ、というのも、それはあくまで相対的な話である。最も大きな違いは、本作における敵は、少なくともファーストシーズンにおいては「人」であり、仮面ライダーにおける敵は何があっても「怪物」であるという点だ。*1

本作においては、怪物的な人間の行動を描写する。そしてソレスタルビーイングの存在が肯定される、ように見える。しかし実際にはそうではない。

沙慈・クロスロードに見られるような考え方、つまり争いに対して争いで解決しようとすることに対する生理的な拒否感も描かれる。彼の考え方は随所で見られるが、基本的には現在の日本人の考え方(そう考えているかどうかは別として行動によって示されている考え方)と一致すると思う。「戦争なんてやりたい奴らでやっていればいいんだ」というような旨のセリフにはそれがよく現れる。

国際社会はソレスタルビーイングの存在を認めない。しかしながら、その圧倒的な強さの前に、人々は攻撃を恐れ争いを止めざるを得ず、打倒ソレスタルビーイングのために分断された国家群は団結する。

これこそが、正義の一面。或いは普遍的な正義の否定と受け取れるかもしれない。彼ら自身が「ソレスタルビーイングに攻撃されないように争わないでおこう」という平和を追求する限り、彼ら自身さえ正義を追求しているというわけではないのかもしれない。

イオリア・シュヘンベルグの考えを推察してみると、彼自身が既に「正義」なるものを追求していなかった可能性すら感じられる。彼は「来るべき対話」のために「人類は争っている場合じゃない」という論理でソレスタルビーイングを設立したのであって、「正義」なり「平和」なりを求めたわけではない。むしろそれは過程の副産物であるし、完成品ではない。

そのことは沙慈が映画冒頭で語っている。アロウズ解体以後の地球連邦の安寧は、あくまでソレスタルビーイングの武力介入という抑止力を背景にしたものであって、それ自体が目的化されるような、完成品としての平和ではない。むしろ不安定な、終わりを予感させる「平和」と言える。

言わずもがな、そうした事情から、ソレスタルビーイングは大きな矛盾が肯定された存在である。それはソレスタルビーイングなり、イオリア・シュヘンベルグなりの見方であって、当の介入される側からすると、その矛盾は大きい。

争いを争いで封する。それには大きな犠牲が伴い、争いそれ自体を否定することは出来ない。であるから、争いを止めることは出来ても、争いを否定し構想されるその先の平和には辿り着き得ない。

この物語の継続可能性は、例えば仮面ライダーエグゼイドなどに見られる。むしろ反対に仮面ライダードライブでは、敵のロイミュードを倒すことで物語が終了する。ロイミュードが果たして敵であったのか、悪であったのか、かなり複雑さを残す結末である。また、変身も出来なくなることで、正義すらも封印される。一方仮面ライダーエグゼイドでは、病気としてのゲーム病を世界から無くすことはできないという現実的な終わりを迎える。ライダーたちはこれからも戦わなくてはならないのである。

ソレスタルビーイングも平和を守るためには戦わなくてはならないはずであり、戦い続けなくてはならないはずである。

「分かり合う」という終わり方

映画の最後、本作は「分かり合わなくてはならない」という終わりを迎える。それをせずに争うことを否定するのである。ソレスタルビーイングの矛盾を解決する手段とも言える。つまり、争いそれ自体を否定してしまう、本物の「平和」に続く道である。

であるからこそ、急に現実離れした感がある。それが残念でもあるのだが、ただしこれはあくまで模範解答だろうと思う。

本作においては、正義というものを規定せず、もしくは未知の存在やイオリア・シュヘンベルグの意思からその規定を必要とせず、「平和」を追求するという形をとった。これこそ仮面ライダーに見られる「正義ではないかもしれない何者かが、悪ではないかもしれない何者かと戦う」という構造と通底する点ではないだろうか。*2

*1:仮面ライダードライブのロイミュードに見られるように「人間」と「非人間」の接近、或いは逆転というものも、テーマとしては存在する。

*2:人間の知性に可能性を見出すイオリア・シュヘンベルグの思想からは仮面ライダードライブの結末のような雰囲気を、また、元来の文字通りのソレスタルビーイングと化した刹那からは仮面ライダー鎧武の結末のような雰囲気を感じることが出来る